リベラル・アーツとアメリカと日本
01/28/2010 5件のコメント
カタめの思索になってしまいました。以降関心がおありの方だけお読みください。
テクノロジーとリベラル・アーツの交差点。

iPad発表イベントでジョブズが示した、アップルがこだわる「べき」場所です。
前回、おでこさんから頂いたコメントの返事の中で、iPadそのものよりも(というと語弊があるけど)私的にインパクトを感じたのがこの「リベラル・アーツ」というコトバでした、という旨のことを書きました。
この「リベラル・アーツ」に反応していらっしゃる方はやはり多いようで、東浩紀氏は氏出身の東大教養部の英語名称変更などと絡めながらツイッターでこのことについて次のようについてつぶやいていました。
水を差すようだが、アメリカでリベラルアーツの思想が生きてるのはいいとして、それを見て「日本でも教養を根付かせないとダメだ!」と反応するのは愚か。すでに日本は、教養を根付かせようとして、失敗した段階にある。「べき」論では事態は動かないのだ。
大学教養部の解体は1991年の文部省によるいわゆる「大学設置基準の大綱化」に端を発します。よく誤解されるところではあるんですが、この大綱化自体は大学に教養部の解体を強制するものではありませんでした。学部教育のカリキュラム編成を各大学の裁量にまかせる、というのがこの大綱化の本質でした。ただ、結果として国立大学の多くでは教養部が解体されることになりました。
価値が多様化している昨今、かつて日本人が抱いた教養のイメージはもはや跡形もありません。東氏の「『べき』論では事態は動かないのだ」という意見ももちろん正論です。
でも、「べき」論、ホントにいらないんでしょうか。
「正しい」「べき」論、を説く人も必要なんじゃないか、と思うことが、最近しばしばあります。
「正しい」「べき」論なんていうと、そりゃ怒る人がいる、っていうのはわかってます。
でも、「論」って「べき」は含まないのかな。
強引に論を進めようとするひとに、「べき論はだめだよ」と躓きを与えようとする物言いはよくありますが、「べき」を言ってはいけない、というのなら、人文系の議論の多くは、論の端緒にすら辿り着けないような気がします。ひとりよがりのべき論はだめですが、多くの人が共感する「論」はひとつの「べき」の方向性を示す権利をもつものではないか、と思ったりします。その見極めももちろん困難ですが。
リベラル・アーツって「自由学芸」と訳せる。と同時に元来は、奴隷ではない、自由人のための技能、といった意味であったかと思われます。自由人であるには、何かしらの知識や技能が必要であったわけです。
「べき」から逃れることが理想的に映った時代から30年を経て、今、日本に生きているひとのどれほどが、自分を「自由人」として自覚できているだろうか、という思いに、ジョブズのプレゼンの後、深く引きずり込まれました。
私自身、何も日本で「教養」を復活させようとか、そういう思いがあるわけではありません。
ただ、2002年、文部科学省は、新しい時代における教養教育のあり方について、とする答申を出し、教養の再考を、高等教育に携わるものに促しています。
お役所の出すお触れにいちいちかまうな、という向きもあるかもしれません。ただ、こうした答申が時代の雰囲気を反映していることも事実で、こうした流れに一瞥もくれない、ということにも問題があるのでは、と思ったりします。
東氏の思想については、一市井の人間としては、全く共感するところも多いんですが、「教養」を根付かせることに失敗した段階にある、として、「教養」を考えない、ということにしてはいけないのではないかな、と、思ったりもします。
なら「教養」って何なの?と問われても、今は答えは持ち合わせていません。この時点で私の負けですけど(笑)
でも、せっかくジョブズが示した道です。
これから何年かかけて考えてみます。
あ、Marrさん、いつも取り上げてくださってありがとうございます。私のような斜め目線ではない、アップルへの純粋な愛情から紡ぎだされるMarrさんのiPadレビュー、ぜひご覧下さい。








Fortune誌がアップルのスティーブ・ジョブズ氏をこの10年で最良のビジネスマン 、”
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