5パーセント

疲れていて何も考えたくないときがたまにあります。対処法はいくつかあります。音楽を聴いたりただテレビをつけてボーッとしたり。お笑い番組も見たりします。過去に録画していたビデオを見たりもします。

今日,仕事から帰ったらそういう状態だったので,いくつかビデオを見ました。たまたま行き当たったのが『情熱大陸』の「20世紀最後の坂本龍一」の回です。ブログを始めたばっかりですが,Marrさんという良き先達と出会うことができたのは,教授の音楽をめぐるMarrさんの芸術観に私が共鳴したからでした。「共感」というエントリでこのことは少し触れましたが,今日ビデオを見ていて再び思い出しました。

教授は[世の中の音楽の]95パーセントは伝統に基づいていて,本当にオリジナルなものはせいぜい5パーセントくらいで,自分はその5パーセントのほうに興味がある,と言っていました。2000年末ごろ,『ウラBTTB』がヒット(オリコン1位だったんですよね,そういえば)した後あたりの取材のようでした。この後,オリジナルアルバムに関しては『COMICA』,『CHASM』など,かなり実験色が濃くなっています。他にもアプトプットのチャンネルをいくつか用意して95パーセント部分の追求も怠りませんが,やはり彼の音楽表現の最も先鋭的なところはオリジナルアルバムに表れています。それまでにも『Esperanto』などの実験的な作品はありましたが,『COMICA』以降はさらに実験性が前面に出ている印象が私にはあります。

実のところ,当時リアルタイムで聞いていたときは,どうにも理解できなかったんです。Marrさんがブログで提起されていたのは,本当の芸術家が「自分の表現したい物を突き詰めていくと、誰にも理解できないもの(自分にしか理解できない表現)しか出てこなくなるんじゃないか」という問題でしたが,当時の私はこの頃の教授の音楽に対して,Marrさんのこの言葉に非常に近い印象を持っていた,と思います。

ただ不思議なのは,直近の『Out Of Noise』は,実験性は衰えていないにもかかわらず,比較的すんなりと入れたことです。感情移入,とまでは言えないかもしれませんが,なんとなくシンクロした感覚はありました。たぶん年齢によるものでしょう。

そうそう,すごく疲れているときにシェーンベルクのピアノ曲をたまたま聴いてみたとき,普段まったく理解できない音楽が少し理解できる気がする,という瞬間が以前ありました。年齢だけでなく,その時の精神状態にもよるのかもしれません。「たまたま」と言いましたが,ひょっとすると,シェーンベルクの曲には「疲れたときに聴きたくなる」という(シェーンベルクの作品を知っている人間に対する)アフォーダンスがあるのかもしれない,と今ふっと思ったりもしました。作り手の理屈を極限までつきつめるとケージの無音の音楽のようなものに行き着くのでしょうが,受け手にとってみれば,コンセプトとしては「なるほどねー」ですがはもはや音楽としてはとてもついていけない。でも時折,シェーンベルクの音楽が,単なるSEとしてだけではなく,琴線に触れる音楽として成立する可能性もある。・・・よくわからないなぁ。やはり「共感」の問題は,難しいです。

いずれにせよ,商業ベースにこうした実験を乗せられるアーティストはそうはいないことを考えると,教授,すごいな,とは思います。95パーセントの(中身もすこしばかりすくいあげつつその)端っこから,ケージのような極限の音楽の間の5パーセントのせまいすきまのなかで,創作を楽しむ(?)教授がいて,小学6年でYMOに出会った私は未だに,教授の音楽に馴化され続けているのかもしれません。

こうやって実験性に徐々に馴化して,いずれ『4’33″』とか『0’00″』に癒される・・・なんてことは100パーセントないでしょうね。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。