メディアの役割って、何なのですか?

Last time there was this much excitement about a tablet, it had some commandments written on it.(”タブレット”についてこれほどみなが興奮したのは、それの表面に例の十戒が刻まれたとき以来だ)

これは、そう、iPad発表の際の基調講演でスティーブ・ジョブズが引き合いに出した、Wall Street Journalからの、iPadを十戒が刻まれたモーセの石板になぞらえた、あの文言です。WSJのこのコメント自体は、ユーモアです。このユーモアを面白いと感じたからこそ、そして彼自身の基調講演においても「ユーモア」として機能するとふんだからこそ彼はこの文言を取り上げた。

2001年宇宙の旅のモノリスとiPhone 4、モーセの石板とiPad、十字架とアップルロゴ英雄としてのジョブズ・・・

ジョブズをキリストに喩える言説はすでにあまた見受けられますし、新しい製品が発表されるたびに何か「崇高」なものにそれら新製品を喩える例が、また最近よく見られる気がします。

確かに、宗教的な何か、あるいは崇高な何かにアップル製品なりジョブズの人柄なりを重ねることで、世のアップルに対する熱狂ぶりを説明することには一定の説得力はあるのかもしれません。これだけ騒がれることの理由を説明するには、そういった例を持ち出すことが、そうした騒ぎを不思議に思っている人の疑問を解消するのに一番都合がいいのかもしれません。

私自身、このブログでアップル製品への愛を語る際、下手するとなんだかそれらを崇高なもののように説明していることもあるのかな、と思ったりもします。ただ、私がいつも強調しているのは、例えば私がMacBook AirやiPad、iPhoneを、非常に「使える」デバイスとして「使い倒している」ことです。依存度という意味では、確かに昔の人が宗教に依存していたのと同じぐらいの濃度で、私はアップル製品に依存している可能性はある。そして確かに、ユニボディのMacBook Proを手元に作業している時、気がつけば工業製品としての域を超越したその美しさを意識している自分がいるのは確かです。実用性と審美性を兼ね備えていることがアップル製品を傑出した工業製品たらしめている要素であることは間違いない。

ただ、ここで重要なのは、宗教的なもしくは崇高なものの比喩と、私が感じているような実用性と審美性を兼ね備えたアップル製品の特徴の実際とは、全く別のものであるということです。敢えて言うなら、そうした製品が、「崇高である」と思わせるきっかけを持っている、ということであり、それを宗教的なものに結びつけるのは、まあ書き手の勝手ではあるのですが、議論をどこかに誘導していきたい、という意図があると思われても仕方がない。

ニューズウィークの記事(和訳はこちら)が、『薔薇の名前』で有名なイタリアの記号学者、アップルとマイクロソフトの対立の構図をカトリックとプロテスタントの対立の構図になぞらえたウンベルト・エーコの16年前の考察を引き合いに、iPadの熱狂に惑わされるなと注意を喚起しています。それはそれで一理あるとは思いますが、この記事においてもそうですが、やはり崇高なものへの安直な比喩が、記事の価値を著しく貶めている印象を持ちます。

私が理解するには、エーコ自身はマイクロソフトやアップルという会社、またそれらが作っている製品がカトリックやプロテスタントといった宗教の崇高さを「身に纏っている」ということを言おうとした「のではない」。例えば、ですが、『薔薇の名前』に描かれた中世ヨーロッパの時代には宗教的な事柄が人々の日常をおしなべて充たしていたのに対して、今はビジネスにおける諸々の事柄が人々の日常を充たしている。そうした意味において、今の(というかエーコが論じた1980年代という)時代、アップルやマイクロソフトが人々の日常にくまなく浸透している(しはじめた)、それだけに多大な影響力を持つ(可能性があった)、ということだと思います。つまり、テクノロジーにおける「宗教戦争」は崇高なものではなく、日常的なことなのです。逆に言えば、かつては宗教は日常だったわけです。宗教的なあるいは神秘的なものの崇高さと、その時々を席巻し、話題を独占しているようなテクノロジーとの合一性のようなものがあたかも存在するような印象を与える記事がよくありますが、じつは、新しいテクノロジーが何か崇高なものと無闇に結びつけられる、というのは奇妙なことです。近代以前ならば宗教が提供したような日常的な話題を、現在におていはテクノロジーが与えている、ということに過ぎない。それは、テクノロジーが日常に与える影響が強いからです。かつて宗教がそうであったように。

それだけに、もちろんアップルユーザーの「カルト」なところは私も自認している部分はありますが、比喩の濫用が認められる場合には、やはり「それはどうよ」という気持ちにもなります。

件のニューズウィークの記事も、iPadの熱狂が一人歩きしているところを牽制したいという意図には一理あると思いますが、なんというか反動的な興奮、とでも言いましょうか、エーコの考察からの引用が適切に使われているのか、ということも含めて、雑誌自体の質を疑いかねないような内容になってしまっているのではないか、という懸念が残ります。

自らが依って立つものの方へ読者を誘導するだけの媒体であることに固執しつづけるのであれば、既存のメディアの価値は、さらに低下していくことになる。このニューズウィークの記事は、新しい脅威を目の前に、既存のメディアがそうした固執傾向をさらに深めてしまっていることを、おそらく無意識に自ら露呈してしまっている一つのわかりやすい典型である。そんな風に思えてなりません。

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