「クレイジーな人たちがいる」で泣く。

くどいですが、アップル信者歴まだ1ヶ月と10日ぐらいのzackyです。

タブレット(もしくはそれに類する)であろうと思われるアップルの新製品について “muse” する気分を前回のエントリでとりあげた記事ですっかりそがれてしまったのですが、なんだかなー、という気分で少しウェブブラウズしていたとき、なつかしい “Think Different” CMにたどり着きました。

「クレイジー」っていうコトバをCMにのっけるって、やはりハンパではないな、と今になって思います。

このCMを見て思い出したのが、マーシャル・マクルーハン。

マクルーハンは「挑戦と崩壊—創造性のネメシス」というエッセイで、「芸術家は未来の歴史を詳細に書くことに常に関わっている、なぜなら芸術家だけが現在というものの性質に気づいているからだ」というウィンダム・ルイスの言葉を引用して、人類が生きのびるためには、新しいテクノロジーの意地の悪い一撃をかわし、完全に自覚した上でそうした暴力から回避することができる芸術家の能力が必要である、と述べています。

今思うと、私が最終的にMacを選んだことの理由のひとつが、Macを最初に起動させてはじめに目にするディスプレイ上の画面に広告用のアイコンがひとつも並んでいないことです。Windows OSを積んだパソコンの殆どはいろいろなしがらみに塗れていて、私の場合、かつてWindows PCを使いはじめるときにはまずはそのしがらみを削ぎ落とすことから始めていました。

「テクノロジーの意地の悪い一撃」の比喩のひとつが、そういう業界のしがらみ、っていうのは言い過ぎでしょうか。そういう業界のしがらみで生計を立てている方々にはおそらくこの比喩は許しがたいものになるかもしれません。でも、世の中の流れに取り残されまいと、必死の思いでパソコンを買おうと量販店に出向いてどのパソコンが良いのかを店員に聞き、勧められて買ったパソコンを家に持ち帰ると、わけのわからないアイコンがディスプレイの上に並んでいる。削除していいかどうかもわからず這々の体でサポートに電話し、結局はそういった特定の方々への利益誘導サービスに対してさらに幾許かのお金を支払う。

これは、意地悪なことでは、ないですか?

少なくとも今のアップル製品は、そうしたこととは無縁だと、私は思っています。PCとは同じ土俵上に存在するプロダクツですが、ビジネスのあり方としては、明らかに隔絶した何かがある、と思っています。それってアップルの独占?という意見もあると思いますが、これについてはかなり難しい議論になります。今はこの問題は開かない。

アップルが完全にクリーンだなんて、これっぽっちも思っていません。でも、自分が支払う対価としてふさわしいものを、アップルの製品からは受け取っていると思っています。私はサポートを利用したことはほどんどありませんが、Genius Barは、そうした理念の現れだと思います。どうせお金を使うなら消費者のためにこういう使い方をしてほしい。ここでまたGenius Barなんてダメだ、という意見も出てくると思いますが、コンシューマ向け製品を作る企業の態度としては、至極当然のことであるはずだ、と思っています。

なーるほど。私はクレイジーなんでしょう。「世間の常識」からすれば。

でも、そういう世界ならば、私はクレイジーであり続けたい。というか、クレイジーな人が生み出すものを、敢えて愛でてみたい(泣)。悲しいんじゃないです。そういう必然で、出会うべくして僕はMacに出会ったと。運命を感じた涙です。うっ・・・。

1月27日、クレイジーなもの、待ってますよ。ジョブズさん。

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Airとマクルーハン

いまさらマクルーハンでもないだろう、とおっしゃる方も多いかと存じますが、最近なんだか気になってずいぶんと読んでいます。

今日は基本にかえって平凡社ライブラリーの『マクルーハン理論』を読んでいました。「メディアはメッセージ(マッサージ)」とか「グローバル・ヴィレッジ」とか「グーテンベルクの銀河系」とか、キャッチーなフレーズだけ聞くと何言うとんじゃい、と突っ込みたくなりますが、早いものでは50年代に書かれたものが、50年後の今のメディア環境についてのあり方を既に見据えているようでもあり、やっぱり預言者か?などと勘ぐってみたくもなります。

まあ、それにも理由はあるとは思います。いちばんの理由は、純粋な意味での「科学的ではない」という批判とも大きくかかわっていますが、マクルーハンが本来英文学者であることが関係していると思われます。ただ、ことばの専門家だったからこそ、上記のようなキャッチによって多くの人の関心を向け、諸問題に対処するきっかけを提供できた、とも言えます。第2次大戦の際、(兵器についての)諸問題について本来の専門分野以外の人間が調査に参加したところいろいろと問題が解決した、という事例を(皮肉交じりに)挙げ、みずからがメディアの専門家ではない「しとうと」であることを、上記の本でも早い段階で宣言してます。「誰かがトラックが走ってくるぞと注意してくれたとき、その人になぜトラックを走らせるのか、と非難するのは失礼もはなはだしい。マクルーハンは、子供たちがものごとをよりよく学習するよう力になってくれるのだ」というJohn Culkinの前書きを読むとよくわかりますが、マクルーハンは何も知ったかぶりをしているわけではなくて、彼なりの知見、それも相当部分、教育者からの知見でメディアに関する彼なりの意見を「しろうと」として述べているにすぎない、というわけです。答えを出すことではなく提案をすることが目的であることに加えて、しろうとだからこそ大胆に言えた。預言者めいているのはこういう理由があるからかもしれません。

メディアが身体を規定する、その逆もまた真、というメディア論の基本的なアイデアもマクルーハンに拠ります。最も重要なのは音声によるコミュニケーションと文字によるそれの対比で、コミュニケーションに身体的に「インヴォルブ」することを非常に重要視しています。その意味では、日本でも一時期ありました「声に出して読みたい・・・」ブームとも関連がありそうです。Macbook AirとiPhoneを使っているモバイラーな私としては、身体とメディアとのかかわりという点についてふだんから意識することが多く、やはりマクルーハンに立ち返らないと、という思いが激しく湧き上がってきます。できればまた、もう少し深く掘り下げてみます。

ところで、今日はめずらしくTULLY’SでAirの写真なぞ収めて参りました。マクルーハンと一緒です。

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Kindle購入の動機

Kindleを手にして早、何日だっけ。

結構楽しんでおります。やはり思いついたときにその場で新聞や本をダウンロードできるのは、すごいことです。

ところで、デバイスとしてはKindleはやはりまだまだ「ベイビー」の域を出ないのでは、と思ってます。薄くて軽くて長時間使える、これのどこがベイビーなんだ、という声も聞こえそうですが、このデバイスを「本」と同義としてとらえたい,いろいろと期待したい,という気持ちがあって,まだまだ改善を期待したいところがある,というわけで「ベイビー」です。もっと言えば,15世紀に “movable type” がメディアのあり方に革命を起こしたようなものと同じレベルでKindleを体験したい、という、これはあくまでそうであったら面白いな、という興味からでもありますが、そういうものとしてとらえたい。もちろん、活版印刷と同レベルで話せるのはむしろPCとかネットだろう、ということにはなるんですが、Kindleには妙な魅力を感じてしまっています。

「ニューメディア」がオーラルなコミュニケーションによる人類の集合的アイデンティティの回復に寄与するか否か、というマクルーハン的な意味で言うなら、Kindleは逆行するメディアに、表面的には見えます。ただ、印刷+視覚メディアによって集合的意識を分断された、というマクルーハンのアイデアは、個人主義の弊害も見られた20世紀の西洋文化の文脈でこそ意義があるんですが、そもそも集合的意識が強い日本のような文化の場においては、Kindleのようなデバイスはちがった存在意義をもつのでは?というおぼろげな印象があったりします。

・・・いい感じです。こういう思考が活性化されるのを狙っていたので。あ、でもデバイス自体は楽しんでおります。念のため。