これからは Mac = PC ということで

1月6日、ついに Mac App Store が “開店” 、とのアナウンスが先日アップルのウェブサイト上でありましたが、このアナウンスのなかのアップルCEO スティーブ・ジョブズのコメントとして引用されている部分を読んで、ちょっと思ったことが。

“The App Store revolutionized mobile apps,” said Steve Jobs, Apple’s CEO. “We hope to do the same for PC apps with the Mac App Store by making finding and buying PC apps easy and fun. We can’t wait to get started on January 6.”

「App Storeはモバイルのアプリに革命を起こしました。PC向けアプリについても、Mac App Storeで同じことができればいいと思っています。PC向けのお気に入りアプリを探して買うことが楽しくなります。1月6日が楽しみです」

スティーブ・ジョブズは、”PC”って言っています。

私の記憶(貧弱な記憶なのであてになりませんが)によると、こういう公的なアナウンスでジョブズがMacのことをPCと表現したことはなかったのではないかと思うのですが。IDCなどの統計でも通常MacとPCは区別されていますし、Macユーザーだからこそ “Mac” と “PC” は使い分けるというのがこれまでの習わしでした。わざわざジョブズのコメントとして、この発言を引用しているのには、やはり意味があるような気が。

“Get a Mac” CMシリーズが今年上半期で完全に姿を消したのも、こうした戦略を見越してのことだったのでしょうか。今回のジョブズの声明は、これからはMac ≠ PC (PC/AT互換機由来?) じゃなくて、Mac = PC (Personal Computer) で行く、という意思表明のように思われます。

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Appleのトラック

iOSの年、と言っても過言ではないような2010年も終盤にさしかかった10月下旬、アップルCEOのスティーブ・ジョブズは “Back to the Mac” を宣言しました。iLifeを発表、2o11年発売の新OS X (Lion) 紹介、そして、長くアップデートが待たれていた新パッケージのMacBook Airが登場したわけです。アップルの真骨頂はここにあり、といった具合にMacの存在感が極限まで高められたイベントでした。

にもかかわらず。

MacWorldのJason SnellがComputerWorldに Apple’s Truck という記事を書いているのですが、今後Macがずっと今のような状態を保っていくのかといえば、やはりいずれはMacの一部はiOSに限りなく近いような特徴をもつものに変化していくのではないか、と主張しています。この変化はすぐには起こらないが、いずれは「iOSで動く伝統的なコンピュータ」をアップルが作るであろう、としています。今年6月に行われたD8カンファレンスでジョブズが “PCs are going to be like trucks”(PCはトラックのようになっていくだろう)として、こうした変化に不安を感じる向きもあるだろう、と言ったことを引き合いに、アップルのコンピュータ製品は2極化していくのではないか、という予想をしています。

ひとつは、「普通の人々」のための方向性。つまり、メールやウェブブラウズ、ゲーム、仕事用の文書作成、などといった情報ツールとしてのMacのありかた。世の大方の(たぶん数十億人の)人々が使う目的はこれであり、こうした人々はジョブズにとっては「乗用車」のドライバーである。そしてこうした人々が使うデバイスはiOSが請け負うだろう。iLifeやLionがiOSスタイルの単一ウィンドウのインターフェースを採用するのはこの先駆けになる。

もうひとつはトラックドライバーのためのもの。より強力なパワーでコンピュータを操作する。カスタマイズし、自動化し、システムの深層までを使いこなし仕事をこなす。(あるいは仕事では必要ないが、楽しみのためにトラックを運転したいと思う人もいる。)アップルがこうした方向性を廃止することはないが、現在あるMacの方向性はこちらである。(ヘビーな作業をMacでできるようにすることでiOSを軽くすることができる点についてはJohn Gruberも指摘している。)

事実上、コンピューターユーザをこのように2分化することは可能であり、長い間実際そうであったが、コンピュータ産業は、こうした2分化に対応しきれていなかった。ただ、日常の作業だけできればいい、と思っている「普通の」ユーザにも過剰なシステムを強いてきた。そもそも初代のMacからずっと、ジョブズ(すなわちアップル)のヴィジョンは “computer for the rest of us” を提供する、というものだった。

というのが、ComputerWorldの記事の主なところです。

そういえばジョブズはコンピュータを “bicycle for the mind” とも言っていましたね。車より軽い(笑)。

乗ること自体に頭を使わなければならないような、あるいはメンテナンスにやたら時間のかかる自転車に、普通の人は乗らない。デバイス自体は、目的ではない。何かの目的を果たすためのデバイスとして、コンピュータを使う。

ただ、愛着のある自転車なら、いつもきっちりメンテナンスして、きれいにみがいて、いつでも気持よく乗れるようにしたい。私にとってのアップル製品は、まさにそんな感じだな、と思います。

Toronto Starは、“It’s all about apps” という記事で、ソフトウェアの配布についてはApp Storeのようなワイヤレスハブを通じて行われるようになる、アップルもGoogleもRIMもMicrosoftも、方向性は同じだ、とやはりアプリケーションソフトのあり方に関する示唆をしています。iOSの目玉機能であるAppStoreがどれほど充実するかによって、iOSの、またiOSが実装されるであろうMacOSの利便性が、そして普及が左右されることは言うまでもないでしょう。

そういえば新MacBook Airが出る前に、これに乗っかるOSに関していろいろと憶測されましたが、本ブログではOS X「が」iOS「に」統合される、という逆転の方向性を示したComputerWorld の Jonny Evans の記事を紹介していました。次期OS Xの発表によって明らかになったことは、OS XにiOSの機能が統合される、という、考えて見れば当然の成り行きともいえる方向性でした。

ならば、以降問題になってくるのは何か。私的には、平成鸚鵡籠中記さんも紹介されていましたiPadとノートのハイブリッド製品(このパテントについては、上のJonny Evans関連の拙記事に、その原型となるパテント情報があります)あたりが(ひょっとして)発表されるころが、ひとつのポイントになってくるのかな、という感じがします。

現時点では、キーボードをつけたとしても、ヘビーな文書編集の作業などにはiPadはまだかなり力不足な感じがします。iOSが今後、メールやウェブブラウズ、ゲーム、仕事用の文書作成、などといった情報ツールとしての機能を、マルチタスクを含めてどの程度までブラッシュアップしてくるかによって、私のようなヘビーな文書編集を日常的に行うユーザがiOSオンリーな環境に移行できるかどうかが決まってくる気がします。

(タイトルとの整合性がいまいちだったのでここから追記)

ComputerWorldの記事の最後にはつぎのようにあります。

There will always be computing truck drivers out there–and I know that most readers of Macworld fit in that group. Steve Jobs clearly believes that there will always be a need for the computer industry to build trucks. The only question is, does Apple want to remain in the truck business for the long haul? If it does, the Mac will have a good future as Apple’s truck.(コンピュータ業界のトラックドライバーは常に存在する。MacWorldの読者のほとんどは、このグループの人たちだ。コンピュータ産業がトラックを作る必要性はつねにある、とジョブズが考えていることはあきらかだ。ただ、唯一の疑問は、長期的に見てアップルがトラックビジネスに留まりたいと思っているかどうかだ。もし思っているなら、アップルのトラックとしてのMacの未来は明るいだろう)

たしかに、iOSデバイスが完全に単独で使えるようになった場合、iOSデバイスはMacOSに依存する必要がなくなる。iOS的な作業で十分、という人にとっては、母艦の存在はむしろ目障りだったりするし、母艦が必要だから、それが面倒くさいから、モバイルを買わない、というような人も結構多い気がします。

私は、ライトなトラックユーザーといったところかな。Macは仕事で使うけど、楽しいから使う、という側面もあるし、iOSも使う。やはり、トラックユーザーのための品揃えをアップルが無くしてしまう、というのは、考えにくいところです。

(追追記)

ジェイソン・スネルも上で引用していたグルーバーの記事“What’s with the Mac doomsayers?”について、maclalalaさんが記事を書いていらっしゃいます。スネルの記事はMacWorldの記者としてグルーバーの記事に反応した意味合いもあるようですので、合わせてご覧いただければと思います。

愛おしさの音

1997年でした。

それまでワープロで文書編集をしていたのですが、やはりそろそろ「パソコン」を使わないと、と思い立って最初に買ったのがPower Mac 7600/200。私とアップルとのつきあいはここから始まりました

ジョブズがアップルに復帰した年にMacを使い始めたことになります。でも当時は業界に関する知識などほぼ皆無に等しいものでしたから、そんなこと知る由もありません。ただ身近にMacに詳しい人がいたことが購入の理由でした。

7600/200を4年間使ったあと知人に譲り、iBook G3を買って6年ほどこれを使いました。1年ほどMacのブランクがあったのですが、2008年にMacBook Airで復帰。現在に至ります。

TechCrunchのMG SieglerがFacebook, The App Store, And The Sound Of Inevitabilityという記事で、現在のFacebookやApp Storeの状況もオープンなシステムとクローズドなシステムのサイクルの一部であって、閉鎖性を憂慮する声もあるが、心配することはない、と90年代のAOLの盛衰を引き合いに論じています。FacebookはOpen Graphがオープンとクローズドのバランスをとる形になっているし、アップルもHTML5そのものをコントロールしているのではない、HTML5はまだ成熟していないが、そのうち魅力的なアプリが自由に作られることになるだろうし、結果としてこれがApp Storeモデルを壊すことになるだろう、と、Facebookもアップルもいずれはオープンに向かうという予測をたてています。

「我関せず」ならば、こういう議論をフォローすることに意味を見いださないでしょうし、フォローする限りはやはりある程度業界の事情に通じていたい、という思いがあるので勉強もしているのですが、私自身の「パソコン」歴を振り返ったときに、原体験としてMacがあることは、それこそ “invebitable” なことだな、と、”The Sound of Inevitablity”(必然性の音)という映画『マトリックス』から引用したシーグラーさんの表現を見て思いました。

業界を俯瞰してみるならば、そういうサイクルで見ることができる。で、のるかそるか、で流れを読むことが死活問題な業界の方々に比べて、私がいかにのんきに、いち個人ユーザーとしてデバイスを使っているか、ということも自覚している。

でも、私個人という人間が一生のうちに使えるモノの数というのは決まっている。トレンドは大切ですが、使いたいものを使いたい。

シーグラーさんが「必然性」といってますが、『マトリックス』でエージェント・スミスがこの台詞を言うのは地下鉄での戦闘シーンでのこと。ネオを追いつめたスミスが迫りくる地下鉄車両の音をネオに意識させるために言います。でもその後ネオは “My name is Neo!” と叫んでスミスを返り討ちにするんですよね。つまり(少なくとも)このシーンでは「必然性」は跳ね返されてしまう。もちろんこの映画の最後では、ネオの物語もそれこそ運命の大きなサイクルのなかの一部でしかないことが暗示されて終わりますが、この台詞自体の謂いはむしろ「必然性」に抗うネオの強靭な意志にある気もします。

アップルがウェブやインターネットやその他の情報を覗く魅力的な「箱」を提供してくれる限りは、私はアップルを使い続けると思います。だって、あの「ジャーン」の音が聞こえなくなるなんて、私には耐えられないんですもの(笑)。さしずめ私にとってこの音は “the sound of indispensability”(絶対必要な音)といったところかもしれません。

アップルの秘密

「アップル好き」宣言から、実はまだ4ヶ月と少しなzackyです。

モバイルを中心に様々なガジェットを吟味し、考えぬいた上で、アップルを選んだ私としては、少しでも多くの人にアップルの良さをわかってもらいという思いを持ちながら、今ではブログを綴っております。畢竟、アップルバンザイな感じのエントリが多いのですが、それでも私自身が「良くない」と思うことについては、それを無理やり「良い」ものとして無理強いするつもりはない。

私が一つ反省しないといけないことは、例の新iPhoneギズモード事件のすぐ後に書いたエントリが、アップルによるシナリオ説を肯定する形のものになってしまったことで、もちろんこれは私の100%憶測によるものですので信ぴょう性のかけらもありません。今思うと、アップルも置き忘れた開発中の製品があんな形で晒されるなんてことは全く想定していなかった、というただそれだけのことのようにも思えます。アップルの秘密主義を支えてきたのも、人を信じるけども信じられる人に対する要求水準が極めて高い「性善説」的なスタンスを、社員の全てが理解して実践する、という社風が維持されていたからこそなのかもしれない、と思います。

ただ、この推測もあくまで推測です。いちユーザーとしては、使い易い製品があることだけで十分なですが、社会的影響力が大きくなればジャーナリズムが取り沙汰する機会も増えてくるわけで、こうした秘密主義はジャーナリズムがネタにする格好の材料になることは間違いない。

以前Mark Fioreの風刺イラストアプリをApp Storeがリジェクトし、フィオーレのピューリッツァー賞受賞後に今度はアップルの方からコンタクトがあったことが問題になりましたが、この件についてJohn Gruberが “It’s Not the Control, It’s the Secrecy” というエントリで次のように言っています。

If it is Apple’s policy not to allow any political satire in the App Store, that’s terrible. If that’s not Apple’s policy, and some individual App Store reviewer rejected Fiore’s app mistakenly, that’s terrible. Either way, something terrible is going on. But worse than anything related to this specific case is the bigger picture: we don’t know.(アップルが政治的風刺をApp Storeに認めないというポリシーがあるとすればとんでもないことだ。App Storeの評価者が個人的なミスで却下したとしても、とんでもないことだ。いずれにせよ何かとんでもないことが起こっている。しかしこの件に関して、その前提においてよくないことがひとつある。われわれが何も知らないことだ)

グルーバーの批評はApp Storeに関するものですが、このことは今回の新iPhone事件についても示唆的な部分があるかな、と思います。

アップルの秘密主義は私のような新参アップル信者でもよく知っているほど有名であり、今回のような事件があると、そうした社風が何らかのかたちで関わっているのではと憶測させてしまう傾向がある。上記の部分に続けてグルーバーは “Apple might think they’re coming out ahead by not publishing their actual rules, because the current situation leaves them tremendous case-by-case discretion.”(アップルは実際のルールを公表しないことで優位に立つことができると考えているかもしれない。なぜならとてつもない数の個別の判断に迫られる状況に彼らが現在身をおいているからだ)と言っていて、これはアップルの社風の現状を理解するには示唆的です。

アップル製品に分厚い説明書がついてこないことはアップルユーザーなら誰でも知っています。使い易いインターフェースがあるから、使えるところから使い始めてデバイスに触れながらだんだん慣れていってね、わからなければジーニアスバーもありますよ、という、「説明書がない」こと自体が持つメッセージは、少し時間が経てばなるほどと思える。さっき「人を信じるけども信じられる人に対する要求水準が極めて高い「性善説」的なスタンス」をアップルが社員に取っている、という仮説を示しましたが、ユーザーについても、「人」を「ユーザー」に変換すれば(そして「極めて」を取れば?)同じスタンスでアップルが臨んでいることがわかります。

ただ、既存のアップルユーザーにとってみれば全くもって賢明なこれらの方法も、「不親切」であるとして理解してもらえない場合がある。つまり、今風に言うなら「見える化」されていないことを、欠点だと見なす向きもある、ということ。

App Storeの風刺イラストアプリ採用不採用の一件は、その場その場での判断が仇となったケースだと言えます。iPhoneを落としてしまったG.P.氏の件についても「そんなことは言われなくても自覚しているはずだ」という社風を彼が読みきれていなかっただけなのかもしれない。ただ情報の少なさが引き起こすのは、その後彼が「非情」なジョブズに「解雇された」、いや「解雇されていないと聞いた」(by Steve Wozniak。というか彼でもよくわかってませんし) といったもはやゴシップ合戦のような様相で、ここに至るとさすがにどうでもよくなってくる。だって真相がわからないのですから。

いちアップルユーザーとして仲間が増えることはとてもうれしいことなのですが、仲間が増えれば暗黙知の領域も当然狭まります。App Storeの一件や今回の新iPhone事件があぶりだしているのは、グルーバーにいわせれば「われわれが知らない」ルールについての、潜在的”for the rest of us” な人々も含めた全てのアップルユーザに対する「インターフェース」を、もう少し整備することの必要性なのかもしれない、などと思っております。

ブレイさん。本音が出てしまってます。

追記:前タイトル、ハシャギすぎていたので、変えました。

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Tim BrayがiPhoneに三行半をたたきつけた件があちこちで取り上げられております。

ブレイのことを知ったのは、先日アップルがHTCを提訴した件についてのJohn Gruberの記事を扱ったときでした。ソフトウェアに関するパテントのあり方についてグルーバーがブレイのエッセイを引用していたのですが、彼もまた重要人物だったのですね。

最近になってGoogleがブレイを雇った、ということなのですが、その理由のひとつが彼の業界内での影響力にある。 Information Week が次のように今回のいきさつを要約しています。

Wasting no time, Google’s latest hire embraced his new role as Android developer advocate by declaring that he hates Apple’s iPhone, even though its hardware and software are “great.”(グーグルに雇われるやいなや、アンドロイド陣営を擁護するという彼の新たな任務を遂行した。彼は、どんなにハードウェアやソフトウェアが「すばらしい」ものであったとしても iPhone が大っきらいだ、と宣言した)

自身のブログで、グーグルに所属したその朝、この件についての記事をブレイが書いています。タイトルは “Now No Evil-Zone“。Information Week など各ソースが引用しているのがこの記事からの以下の部分です。

The iPhone vision of the mobile Internet’s future omits controversy, sex, and freedom, but includes strict limits on who can know what and who can say what.  It’s a sterile Disney-fied walled garden surrounded by sharp-toothed lawyers. The people who create the apps serve at the landlord’s pleasure and fear his anger.(iPhoneが示す未来のモバイルビジョンは論争やセックスや自由を欠いている。そのかわりに、知るべきことを知っていて言うべきことを言える人たちに厳しい制限を課す。鋭い歯で待ち構える弁護士という壁に囲まれた「ディズニー化」されたつまらない庭のようなものだ。アプリケーションを作り出すのは、主人の楽しみのために仕え、彼の怒りを恐れる人たちなのだ)

オープンな開発環境を擁護するという意味でこれに勝るものはないような、随分がんばった表現ですね。そして重要なのはこのブレイのコメントはGoogleの(準)公式な見解になることです。

ブレイの記事では当然私のような素人には難解な専門的な記述が見られますが、上記のような、私のような素人にもわかりやすい比喩も用いてくれていてわかりやすいです。こうしたわかりやすい表現を用いるということは、メディアにもこの部分は取り上げられるであろうという確信めいたものがあったはずです。

そういう意味で言うならば、やはりディズニーという比喩(と受け取られてもここは仕方がないと思います)を用いたことは、ディズニーの価値を過小評価している彼の考え方が反映されているように思えてなりません。

ディズニーが秀逸なのは、全てを管理した上で、完璧な娯楽の世界を作り上げる点です。こう言うことで、アップルがまさにそうしたディズニーのようなものづくりのありかたを目指している、とブレイは暗に示していることになりますが、ブレイがうまくないと私が思うのは、ディズニーに魅了されてる人々の、そして、ディズニーに価値を見出している人の「良心」をこの記事によって否定してしまっていることです。

オープンな開発環境が非常に重要であることはわかります。業界内でのそれぞれの陣営内あるいは対陣営間の魑魅魍魎な人々による駆け引きも想像は出来ます。

一方で、オープンで大人な世界が全てだ、とも言えない。もちろんクローズドなアップルな環境が全てだ、とも言えない。それぞれ役割があるはずです。

App Storeが性的な表現を排除するという方向性を示した、というならば、その趣旨に伸るか反るか、で、ダメなんでしょうか。それとも今回のブレイの発言も、なんというか、売られた喧嘩(どっちが最初に喧嘩をしかけたのかもわかったものではありませんが)は、というノリだからこうなったんでしょうか。

一企業の判断です。それによって一個人の表現の自由が奪われるはずがありません。

奪われるのは iPhone(近日中には iPad) における表現の自由だけです。

現在、規制をかけ始めたアップルにたいして辛辣な見解を示している人たちが(図らずも?)表わしてしまっているのは他ならぬ iPhone(iPad)もしくはアップルに対する「愛情」なんじゃないんでしょうか。素晴らしいがゆえに、そのプラットフォームでの開発を何らかの理由で諦めざるをえない人たちの、アップル製品に対する愛情。

うーん。ちょっと自己完結的ですかね?

でも、私自身、子どもを持つまでディズニーなんて分からないタイプの人間でした。子どもが生まれてから、子どもが健全に育って欲しい、そのためにはある程度、様々なものごとを親として選別し、子どもに与える必要がある。すくなくとも一定の期間は、こういう配慮は必要であり、そうした時期にディズニーはやはりうってつけの素材として既に存在しています。

私にとってのアップルを使う理由も、現在の私のニーズにあったものをアップルが与えてくれるからです。昔はオープンな開発環境のメリットや「理念」をど素人なりに素晴らしいと思って活用しようと思いましたが、そういう環境に精通していない者にとっては、そうした環境を使うことはすなわち時間の浪費以外のなにものでもないわけです。Mac をメインで使いはじめてからどれほど生産性が上がったことか。

ブレイの発言も業界内の人ならば「なるほど」と思うレトリックを使ったものなのかもしれませんが、影響力のある人ならば、業界外の人も読むことを前提として発言したほうが賢明だと私は思います。私のようにいちエンドユーザとして、いろんなことをいろんな方向から考えている人もいる、ということは頭に入れておいた方がいいのではないかと。まあ、それほど憎い、もしくは可愛さ余って・・・ということなのかもしれませんが。

何かを必要とする人と、そうでない人がいるのです。世の中には。

私が上に示したのは隙だらけの論ですが、私のブログは、Macの製品を使いはじめたことで生産性がアップしたことの証明です。私にとってこれにまさるポジティブな事実はありません。そして、そうした環境を享受している人たちの価値観を否定する権利など誰にもないはずだと、私は思います。