「5パーセント」ふたたび

前回のAVATARに関するエントリについてのつづき。

ああ、また「オリジナリティ」なんていうロマンティシズムにとらわれてしまっていました。

以前、これに関連したことを書いていたのを忘れていました。坂本龍一氏の「5パーセント」論です。主旨は、世の中の音楽の95パーセントは伝統に基づいていて、本当にオリジナルなものはせいぜい5パーセントくらい、自分(教授)はその5パーセントのほうに興味がある、ということだと思います。ポピュラリティがあればあるほど、過去の伝統に依存する度合いが高くなるのは当然のことだし、「売る」ためには過去の成功例を積極的に取り込むのは、商売人としてはあったりまえのことです。こうした議論において微妙な線上にある表象を映画内に持ち込んでいるキャメロンのやり方というのは、私のように騒ぐ奴がいればいるほど成功と言える戦略なわけで、私はみごとに「釣られた」わけです。

やっぱり、お金を儲けられるかどうかって、メンタリティに負うところがおおきいのかな、と思う今この時間なわけです。

<本日の一曲:ゲルギエフ+キーロフ+ロッテルダム/ショスタコーヴィッチ『交響曲第7番 レニングラード』> 前回は体調不良で音楽を聴く余裕がありませんでした。本日もイマイチです。でもこういう、ちょっとささくれ立っている気分のときには第一楽章の「いつまで続くの?」スネアドラムとその顛末がむしろ安定剤のように作用することに気づきました。

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想像は想像を模倣する(いやパクリとかいうんじゃなく・・・)

AVATARつづきです。

つい最近になってトレーラーを見たのですが、見た瞬間に思い出したのが、プログレの雄「イエス」 のジャケ絵で有名なロジャー・ディーンの世界観です。公式サイトのギャラリーにAVATARからのカットがいくつかありますが、

←これって、これ→

に似てると思うのは私だけでしょうか。

左がAVATARからのカットで右はロジャー・ディーンによるユーライアヒープのアルバムのジャケ絵です。確かに浮いてる石の数が違うし、木の生い茂りかたとかは全然違いますが、私に言わせれば、世界観の一部がいわゆるパクリ(笑)によって成り立っているようにも見えます。もちろん芸術にしろエンターテインメントにしろ、ある作家の想像物はその作家が無から生み出したものではないはずで、その作家が蓄積してきたものが直接的にあるいは間接的に表れてくるもので、それがたまたま似ていてるだけ、という場合も、そりゃああると思います。いちいち言ってたらエンタメ産業成り立たねーよ、音楽とかもっとだよ、と。

ごもっとも。

ただ、特にキャメロンのようなメガヒット映画を連発させる映画監督がこういう感じのことをやるってのは、すんごい微妙な感じがします。同人じゃないんですから(だったら許されるというものでもないでしょうけど)。それに、力があればパクリも許される、みたいなことになると、根がナイーブな(笑)私としては、ちょっとどうだろ、と思うわけです。もちろん私がここでAVATARのトレーラーを見なければイエスやユーライアヒープのことを思い出すことすらなかったわけですから、単純に元ネタが搾取されているばかりではない、とも言えますが、ディーンの絵って非常に印象的で記憶にとどめている人は多いと思うんですよね。

キャメロンのディーンに対するリスペクトのしるしであるならば、どこかで明言しておいてほしいものです。どこかでキャメロンがこのあたりについて言及している、というのを見つけた方はぜひお知らせいただければありがたいデス。

映画観る前からこの興奮状態。・・・私の場合に限っては、映画にあまり期待しない方がいいですね。

<追記>

やっぱり同様の印象を持っている人は多いようです。”cameron, avatar, roger dean”あたりで検索するとここをはじめとしてたくさんコメントが見つかりました。まあ、ロジャー・ディーンの絵の中には東洋の絵画(浮世絵とか山水画)の影響を受けているのが明らかにわかるようなもの(右)もありますし、「パクり」問題というのは程度の問題になるのだろうな、というような気がします。あとパロディとか風刺の概念が入ってくると、さらに複雑ですし。創作って、結構ギリギリなんでしょうね。そのあたりのさじ加減が。鑑賞する側の知識とか感性とかにもかかわるだろうし、鑑賞する側がクリエイターかそうでないかで、寛容さの度合いも違いがあるでしょうし。物書きが商売なら引用だってそうです。・・・若干自分の身にふりかからないでもない事態になりそうなので、この件についてはあまり言わないことにします(汗笑)。

“AVATAR = iPhone” それとも “AVATAR ≠ iPhone” ?

ジェームズ・キャメロンの新作、AVATARが話題です。

日本では23日から公開ですが、アメリカでは18日から公開されていて、いろいろとレポートが出てきています。New York Timesは A New Eden, Both Cosmic and Cinematicというタイトルの記事で “Created to conquer hearts, minds, history books and box-office records, the movie … is glorious and goofy and blissfully deranged.” と、ちょっとニュートラルな感じから始めていますが、最終的には「子どもだったから当たり前だけど、映画が人生より大きかった頃のことを思い出させてくれる」と、映画の醍醐味が味わえる作品だと言ってます。ただ、”He hasn’t changed cinema, but with blue people and pink blooms he has confirmed its wonder.”と締めくくっているのは、WIREDの記事 James Cameron’s New 3-D Epic Could Change Film Forever を承けているのか、手放しの賞賛はしないよ、という含みかもしれません。

TechCrunchは大絶賛です。まだ公開されてから36時間だけど、3時間近いこの映画をすでに2回見て今週末にはまた見に行く、と微笑ましいぐらいの入れ込みようです。ストーリーはさておき特殊効果がすごい、90年代(ジュラシック・パークのような)の特殊効果は「笑えるぐらい」時代遅れのものになった、とまで言います。

それより気になったのは、この記事のタイトル Avatar Is Like The iPhone Of Movies で、もちろん主旨はiPhoneがモバイル産業を変えたのと同じぐらいこの映画が映画産業を変えるだろう、ということなのでしょう。おもしろいことにニューヨークタイムズの記事でもiPhoneに言及しているのですが、こちらでは「人生より大きかった」子どもの頃の映画と、大人になった今の日常を規定するiPhoneという小さなデバイスを比較しているわけです。

ふーん。

映画(=AVATAR)とモバイルデバイス(=iPhone)というそれぞれの業界において技術の最先端を行くという意味では、比較の対象になっておかしくはありませんが、見方が違うと比較のされ方も全く違うというのは面白いものです。というか、映画にせよ何にせよ、メディアとしての影響力、あるいは最先端の技術を語る場合、iPhoneを持ち出すことでなんとなく雰囲気がつかめるぐらいに、一般的にも認知されているし、それを使っている人(私も含めて)もなんとなくわかってしまう、ということでしょ?  iPhone というデバイスの存在感の凄さを、ニューヨークタイムズとTechCrunchの記事を読んで改めて感じてしまいました。

しかし、批評だけ読んで済ますのももったいないので、病み上がりの私ですが、来週早々には見に行きたいと思ってます。私的には3D的なものとしてはもう何年前だろ、「ベオウルフ」以来ですから。少し楽しみ。