アップルがもたらすウェブの福音

いつまでたっても文系ガジェット批評のスタンスは崩さない(というか当然崩せない崩しようがない笑)zackyです。

Steven Johnsonというライターさんの “Rethinking a Gospel of the Web” という記事が少し前のニューヨーク・タイムズにあったのですが、ここでジョンソンさんは、多くの人がオープンなプラットフォームのほうがより “generative”(生成的、生殖的)だという前提でこれまでやってきたけど、実際のところいくつかの重要な点においてはアップルの閉じた設計思想のほうがプラットフォームの “generativity” に貢献している、という主旨の論を展開しています。

この記事では一言も言及されていませんが、Googleとの一連の係争においても中心的な話題となっていた、「開かれた」ほうがいいのか「閉じた」ほうがいいのか、という議論のまとめのようにも読める記事で、私のような文系人間にも非常にわかりやすかったです。

単なるまとめにも見える記事ですが、この記事で私が興味深いと思うのは、革新性と多様性は開かれたプラットフォームによってもたらされる、というひとつアイデアが、アイデアの域を超えて gospel(教義)になってしまっていた、というか、「開かれた開発環境」というアイデアが福音である、と思わせるような状況が当時においては在った、ということを暗に指摘している点です。

このあたりの私見については、アップルとHTC(事実上はGoogle)が争っているさなか、Tim BrayがGoogleに雇われた件について書いた拙記事にもありますので参照いただければと思うのですが、ジョンソンさんの記事を読んでやっぱり考えてしまうのは、「開かれた」=「民主的」あるいは「自由」=「善」という、一見明解な3段論法が、果たして「真」なのか、ということ。

実は私もかつて「開かれ」のゴスペルに魅力を感じてLinuxを使おうと努力したことがありました。ところがやはり学んでいる時間がなかった。その世界に通じている人には理想的な環境なのかもしれないけれど、ある特定の目的のために電子機器を使いたいと思う人達のための思想ではないのだな、ということを使い始めて2日目ぐらいで早くも感じてしまいました。「開かれている」こととはつまり、原則として全てを一から学ばないといけないことを意味するのではないか、と。無理なんです。

プログラムのプの字も知らない私なので見当違いのことを言っていたら申し訳ないのですが、iPhoneやiPadにFlashが乗るかどうかということについてこれだけ議論喧しいのも、この問題が基本的にはこういった優先的プラットフォームの選択の問題に関わっているからだと私的には理解しています。

iPhoneやiPadが全てなんてことはありえない。電子機器業界全体として見れば極めて少数派です。ジョンソンさんはアップルの設計思想を “a gospel” としていますが、”a” がついているあたり、それが全てではない、というニュアンスもあるのかな、と思います。ただ、現在においてアップルが提供する開発環境が、往時のLinuxや今のAndroidなどの「福音」に対抗するものであると認識しうる状況は十分にあります。そしてもしそれが「福音」であるならば、それをロールモデルとする実践が今後普及していくことも十分予想されるところです。特にiPadはこれからのタブレット型デバイスの分野を牽引していく存在に間違いなくなっていくであろうと予想されるような状況でもありますし。

アップルが提供している開発環境を “walled garden”(壁に囲まれた庭)と比喩(揶揄)する向きもありますが、ジョンソンさんは、この環境がうまく運用されるならば、壁に囲まれた庭は、ウェブという “ecosystem”(生態系)における “rainforest”(熱帯雨林)になりうる、と締めくくっています。

私はすでに、Mac/iPhone/iPadがないと生きられない体になっているんですけど(笑)。

ブレイさん。本音が出てしまってます。

追記:前タイトル、ハシャギすぎていたので、変えました。

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Tim BrayがiPhoneに三行半をたたきつけた件があちこちで取り上げられております。

ブレイのことを知ったのは、先日アップルがHTCを提訴した件についてのJohn Gruberの記事を扱ったときでした。ソフトウェアに関するパテントのあり方についてグルーバーがブレイのエッセイを引用していたのですが、彼もまた重要人物だったのですね。

最近になってGoogleがブレイを雇った、ということなのですが、その理由のひとつが彼の業界内での影響力にある。 Information Week が次のように今回のいきさつを要約しています。

Wasting no time, Google’s latest hire embraced his new role as Android developer advocate by declaring that he hates Apple’s iPhone, even though its hardware and software are “great.”(グーグルに雇われるやいなや、アンドロイド陣営を擁護するという彼の新たな任務を遂行した。彼は、どんなにハードウェアやソフトウェアが「すばらしい」ものであったとしても iPhone が大っきらいだ、と宣言した)

自身のブログで、グーグルに所属したその朝、この件についての記事をブレイが書いています。タイトルは “Now No Evil-Zone“。Information Week など各ソースが引用しているのがこの記事からの以下の部分です。

The iPhone vision of the mobile Internet’s future omits controversy, sex, and freedom, but includes strict limits on who can know what and who can say what.  It’s a sterile Disney-fied walled garden surrounded by sharp-toothed lawyers. The people who create the apps serve at the landlord’s pleasure and fear his anger.(iPhoneが示す未来のモバイルビジョンは論争やセックスや自由を欠いている。そのかわりに、知るべきことを知っていて言うべきことを言える人たちに厳しい制限を課す。鋭い歯で待ち構える弁護士という壁に囲まれた「ディズニー化」されたつまらない庭のようなものだ。アプリケーションを作り出すのは、主人の楽しみのために仕え、彼の怒りを恐れる人たちなのだ)

オープンな開発環境を擁護するという意味でこれに勝るものはないような、随分がんばった表現ですね。そして重要なのはこのブレイのコメントはGoogleの(準)公式な見解になることです。

ブレイの記事では当然私のような素人には難解な専門的な記述が見られますが、上記のような、私のような素人にもわかりやすい比喩も用いてくれていてわかりやすいです。こうしたわかりやすい表現を用いるということは、メディアにもこの部分は取り上げられるであろうという確信めいたものがあったはずです。

そういう意味で言うならば、やはりディズニーという比喩(と受け取られてもここは仕方がないと思います)を用いたことは、ディズニーの価値を過小評価している彼の考え方が反映されているように思えてなりません。

ディズニーが秀逸なのは、全てを管理した上で、完璧な娯楽の世界を作り上げる点です。こう言うことで、アップルがまさにそうしたディズニーのようなものづくりのありかたを目指している、とブレイは暗に示していることになりますが、ブレイがうまくないと私が思うのは、ディズニーに魅了されてる人々の、そして、ディズニーに価値を見出している人の「良心」をこの記事によって否定してしまっていることです。

オープンな開発環境が非常に重要であることはわかります。業界内でのそれぞれの陣営内あるいは対陣営間の魑魅魍魎な人々による駆け引きも想像は出来ます。

一方で、オープンで大人な世界が全てだ、とも言えない。もちろんクローズドなアップルな環境が全てだ、とも言えない。それぞれ役割があるはずです。

App Storeが性的な表現を排除するという方向性を示した、というならば、その趣旨に伸るか反るか、で、ダメなんでしょうか。それとも今回のブレイの発言も、なんというか、売られた喧嘩(どっちが最初に喧嘩をしかけたのかもわかったものではありませんが)は、というノリだからこうなったんでしょうか。

一企業の判断です。それによって一個人の表現の自由が奪われるはずがありません。

奪われるのは iPhone(近日中には iPad) における表現の自由だけです。

現在、規制をかけ始めたアップルにたいして辛辣な見解を示している人たちが(図らずも?)表わしてしまっているのは他ならぬ iPhone(iPad)もしくはアップルに対する「愛情」なんじゃないんでしょうか。素晴らしいがゆえに、そのプラットフォームでの開発を何らかの理由で諦めざるをえない人たちの、アップル製品に対する愛情。

うーん。ちょっと自己完結的ですかね?

でも、私自身、子どもを持つまでディズニーなんて分からないタイプの人間でした。子どもが生まれてから、子どもが健全に育って欲しい、そのためにはある程度、様々なものごとを親として選別し、子どもに与える必要がある。すくなくとも一定の期間は、こういう配慮は必要であり、そうした時期にディズニーはやはりうってつけの素材として既に存在しています。

私にとってのアップルを使う理由も、現在の私のニーズにあったものをアップルが与えてくれるからです。昔はオープンな開発環境のメリットや「理念」をど素人なりに素晴らしいと思って活用しようと思いましたが、そういう環境に精通していない者にとっては、そうした環境を使うことはすなわち時間の浪費以外のなにものでもないわけです。Mac をメインで使いはじめてからどれほど生産性が上がったことか。

ブレイの発言も業界内の人ならば「なるほど」と思うレトリックを使ったものなのかもしれませんが、影響力のある人ならば、業界外の人も読むことを前提として発言したほうが賢明だと私は思います。私のようにいちエンドユーザとして、いろんなことをいろんな方向から考えている人もいる、ということは頭に入れておいた方がいいのではないかと。まあ、それほど憎い、もしくは可愛さ余って・・・ということなのかもしれませんが。

何かを必要とする人と、そうでない人がいるのです。世の中には。

私が上に示したのは隙だらけの論ですが、私のブログは、Macの製品を使いはじめたことで生産性がアップしたことの証明です。私にとってこれにまさるポジティブな事実はありません。そして、そうした環境を享受している人たちの価値観を否定する権利など誰にもないはずだと、私は思います。

Nexus One の真の意図?

えーと、わかりにくい喩えかもしれませんが、敵地でタイトルマッチをして勝つボクサーのような強さを持っている相手でないと認められない、というスタンスを取るのがアップル信者になってまもない私としてはふさわしい態度かな、と思っています(但し、過去の私のモバイル遍歴は是非参考にしていただければ、とも思います)。

Nesux Oneの登場からもうすぐ2週間。発売後に手にした方々のレビューもいろいろと出てきはじめております。

意外だったのは最初の1週間の販売台数。ITMediaがFlurryを承けて報告しているところによると2万台ということです。これは同じくAndroidケータイであるMotorolaのDROIDの25万台と比べてもかなり少なめの数字。単純な数字の比較に意味がないのは確かですが、その後のムードを作ることも確かであることを考えると、ユーザーへのレスポンシブルではない現時点での対応なども含めて、Nexus One自体を「売る」ことが究極の目的ではないのか?と思える数字です。確かにGoogleなら売らずにタダでばら撒くということもしかねません。でも、やっぱり端末を売るとういことは、そうすることでどれくらいの収益が見込めるかを値踏みしていると考えられるのも確かです。そこで、同じくITMediaが報じているのは、Nexus OneがGoogleのハードウェアビジネスの端緒である可能性です。つまりこれからハードで収益をある程度上げていこうというGoogleの意志の表れがNexus Oneであると。しかしこれについてはアンディ・ルービンは否定していて、その理由はハードウェアビジネスが失敗した時にこれまで積み重ねてきたGoogleのブランドイメージに傷がつくからだ、という分析もしています。もしそうなら、ルービンの戦略は今のところ「功を奏している」ということになります。

Nick Bilton(最近なんだか彼の記事やビデオレポートによく行き当たります)はNew York Timesの”Torn Between 2 Phones: Nexus One vs. iPhone” という記事で、iPhoneに決別してNexus Oneに乗り換えるための決定的な理由を見いだせないことを述べています。O’Reilly MediaのTim O’ReillyやEtsyのChad Dickersonらのレビューを取り上げ、Googleのサービスを使うにはNexus Oneが便利だが、MobileMeやiTunesの連携も含めてアップルのサービスを使っている人にはiPhone がいい、と、それは確かにそうだとしか言いようのないことを言っています。

ご存知のように昨年末、AT&Tは一部ニューヨーク地域でのiPhoneのオンライン販売を一時見合わせましたが、慢性的なトラフィック不足の問題を抱えるAT&Tのサービスに不満を持つニューヨークのユーザーは多い。むしろiPhoneに見切りをつけようとiPhoneに代替できる機種を待ち構えつつもなかなか乗り換えに踏み切ることができないニューヨークのiPhoneユーザーの心境をビルトンは代弁しているようです。

ビルトンはSteve WosniackがNexus Oneを「最近の」お気に入りだと発言したことについても触れていますが、それでもまだ2台のiPhoneを持っているけどね、とウォズ自身が後に但し書きを加えたことにも注意を促しています。ウォズってアップルに対して多少辛辣な場合があってもなんだかんだ言ってフォローしていますし、そもそも彼はルービンが立ち上げた会社 Danger Inc. の役員に名を連ねてるんですよね。ルービンに対するリップサービスがあるのは、当たり前のことではあります。

さて。ここまでNexus Oneのことを考えてしまうと、さすがに少し使いたくなってきました。元モバイラーの血が騒ぎます。

だいたいですね、Nexus Oneという名前のコノテーションがヤバイ。Googleは無関係としているようですが、リドリー・スコットの『ブレードランナー』(原作はフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』)に登場する、ロイをはじめとしたレプリカントの最終型 Nexus-6 のことを念頭におかないわけにはいかないネーミング。近年のアップルはどちらかというと、既存の物語がもたらす含蓄を意識的に排除するネーミングをしている印象がありますが、それに対してGoogleの含蓄ありありのこのネーミングセンスは、それこそかならず “Nexus Six” を出さいないと許されない、というような雰囲気をすでに作ってしまっているようにも受け取れます。ディック作品やその世界観に言及するということにはそういう「責任」がつきまとうのかもしれないと私的には思います(だからこそディックの遺族も無関係としているGoogleに対して疑念があるのだと思います。サポートの体制の問題とともに、権利にまつわる数あるGoogleの問題のひとつとして俎上に上げられそう)。

ところで、Nexus-6は最後はデッカードに倒されるんですよね。

考えれば考えるほどわからなくなるNexus One(を出したGoogle)の真の意図。こちらもこれからの展開が楽しみです。

<追記>

やっぱり考えるば考えるほど、Nexus Oneというネーミングはまずかったのではないか、という気がしてきます。あまりに含意がありすぎる。半ば直感に近い憶測になりますが、考え方次第では、学生のベンチャー企業(と言っては学生ベンチャーに失礼ですが)がつけそうな名前にも見えてくる。DROIDのほうがずっとずっといい。Googleの場合は、コンシューマ向けハードウェアのマーケティング戦略だけを見るなら、ジョブズの足元にも及んでいないんじゃないか、と本気で思ってきてしまいました。

でもあのGoogleのことです。私の浅はかな思考のはるか先にある何かを見据えているに違いない(と思いたい)。でも、発売後1週間の販売台数が示すところと言うのは、案外こういう消費者の直感みたいなものを如実に反映しているものなのではないのかな、とも少し思ってしまいます。